ドジョウのナレズシ 栗東市大橋三輪神社

2012年5月10日

一週間ほど遡りますが〜
5月3日、是非とも行ってみたかった三輪神社に行ってきました。
JR草津駅から草津線の1つ目の駅、手原駅から約1km。
徒歩で十数分の場所にあります。


より大きな地図で 鮒寿司の壁 マップ を表示

ここの神社の祭りは珍しいドジョウのナレズシのお供えがあります。
滋賀県下には色んなナレズシがあって、ドジョウと言うだけでは
大して珍しくないと言われそうなんですが、
魚を生きたままナレズシにするというのは珍しくないですか?

昔々、この神社の神の使いである白蛇が
人身御供を要求した、という言伝えがあるそうです。

いつの頃から人をお供えするのではなく、ドジョウのナレズシを
生け贄の代わりに供えるようになったそうです。
生きたまま漬けることで人身御供の意味を残したのでしょうね。

ちなみに、人身御供は人柱とも言われますが、
柱という表現は神さんの数を数えるときに使われる表現でもあり、
何か関連があるのでしょうかね?

<三輪神社参道>

<三輪神社参道>

延喜式に掲載されるような、広く名の知れた神社ではありませんから
何か古文書などの記録に残っている、という事はないそうで
言伝えですが、と地元の方が断りを入れて説明をして下さいました。

「記録」は無くとも、この「生きたまま」というのが「記憶」のクサビとなって
長年、神社の言伝えを継承してきたのではないかなぁ〜と想像します。

人身御供が伝説ではなく事実としたら、いつの時代の頃なのか分かりませんが
随分と長い間、継承されてきたのですね。千年やそこらではないでしょうね。

<小学生の巫女さんの舞の奉納>

<小学生の巫女さんの舞の奉納>

祭りは午後1時からという事でしたが、私は到着が少し遅れて
神社に到着した頃には拝殿にて巫女さんの舞の奉納が始まっていました。
巫女さんと言っても、本当に若い小学生の巫女さんです。

人身御供というと少女が連想されるのですが、
それとこの舞の奉納も関連があるのか?と思いましたが
舞の奉納をするようになったのは戦後になってからだそうです。

人身御供とその背景などの話は、下記に紹介する本に影響を受けて
大いに関心を持つようになりました。なかなか面白い推論ですので
興味のある方は読んでみてはいかがでしょうか。

さて、肝心のドジョウのナレズシですが、5月1日に
昨年の秋に漬けた物を初めて封を開ける「口開け」を
当番のお宅でされて、神社にお供えをされるそうです。
そのお下がりが3日の祭りに出されるのです。しかも、
そのナレズシは誰でも食べて良いとの情報を私は予め聞いていました。

聞いてはいましたが、全くの部外者が自分から勝手に
食べに行くというのは、やっぱり少し抵抗があります。

どうしようか躊躇していた所に、以前鮒寿司オフ会で知り合った
大谷大の櫻井先生も取材で来られていたので合流したところ、
櫻井さんが地元の方も紹介して下さり、挨拶などして
「ドジョウのナレズシに興味があって来ました」と話すと
地元の方に「どうぞ、どうぞ」とドジョウのナレズシを勧められて
目的を果たす事が出来たのでありました。

<ドジョウのナレズシ 東西二つの組の切磋琢磨>

<ドジョウのナレズシ 東西二つの組の切磋琢磨>

さて、初めて食べたドジョウのナレズシですが
見た目も、食感も比較する類似の食べ物が思い当たらず
何と表現して良いか…。

このナレズシ他の一般的なナレズシとは違って、ご飯だけではなく
タデも入れて漬けてあります。タデとは刺身のツマなどにも使われる
山椒の実ほどの大きさの紫色のアレなんですが、
「何か意味があるのですか」と問うたところ、
「昔からず〜っとそうしてきただけで意味は分からんけど、
刺身のツマにも使うくらいだから殺菌効果があるのかもしれんなぁ〜」
という事でした。

食感はグニャグニャしていて噛み切り難いです。
この食感が最初慣れませんが、味は悪くはないです。
慣れると病みつきになるのかもしれません。
私はドジョウそのものを食べ慣れていないので、
味については「そんなものかなぁ〜」程度の感想でしたが、
発酵したご飯はとても美味しかった!

酸味が軽く、クエン酸のような柑橘系の爽やかな酸味を感じました。
これは素晴らしい発酵飯でした。(個人的には西の方が好みの味でした)

人が次から次へとナレズシをつまみに来られて、
東西どちらが美味いなどと話しながら食べておられ、
あっという間に無くなっていきます。

<ドジョウのナレズシ 上にナマズのナレズシも乗っている>

<ドジョウのナレズシ 上にナマズのナレズシも乗っている>

櫻井さんから「すし漬け人」(ここの祭りのナレズシ作りの指導員のような方)の
北野さんを紹介頂き、色々話を伺いました。

今年のナレズシも上出来でホッとしたとの事でした。
昨年の9月23日に漬けて、この日までうまく漬かっているかどうは
分からないので、気の弱い者だったらこの間の半年、ず〜っと心配で
絶えられないだろうと話していました。

もう一人の地元の郷土史家の大隅さんも紹介して頂き、
お二人から色々とお話を伺いました。

<地元の方と話が出来たのは有り難かった>

<地元の方と話が出来たのは有り難かった>

大橋地区は現在一戸建てが350戸、アパートを入れると
600戸だそうですが、元々は60戸程の農村地区との事でした。
野洲川の扇状地にあたり、村中に野洲川からの水路が走っており
ドジョウを捕るのは容易だったようです。
しかし戦後、このあたりの地域は様子が大きく様変わりしてしまいました。

何とかこの祭りを伝えてきたが、継承していくのは大変だと
話しておられました。

「ドジョウのナレズシは美味しかったです。
特に発酵した飯が美味しかった!」と言いますと
北野さんはニコッと笑って
「また9月の23日に漬けるから、その時に来たらよろしいわ」と
言って下さいました。

おお!ラッキー!
是非伺いたいと思います。

最後に、ドジョウのナレズシにがっつく地元の子ども達の動画を添付して
今回のレポートは終わりたいと思います。

<内部リンク>
5月3日は鮒寿司に関連して興味のある祭りが〜
ドジョウのナレズシ 三輪神社
超えたものだけが知る味の秘境とその仲間のコミュニティ 2rdオフ会

5月3日は鮒寿司に関連して興味のある祭りが〜

2012年4月23日

5月3日、とても悩ましい問題が起きています。
この日は二つの神社で祭りが行われます。
見に行きたいのですが、どっちに行くべきか〜〜

1つ、米原市 筑摩神社の鍋冠祭(なべかんむりまつり)
1つ、栗東市 三輪神社の鰌祭り(どじょうまつり)

筑摩神社の鍋冠祭は日本三大奇祭と言われています。
8歳の少女8人が狩衣姿に鍋を冠って筑摩神社まで巡行します。

筑摩神社に興味を持ったのは、発酵学者小泉武夫さんの
発酵する夜』という本で滋賀県立大学初代学長の
日高敏隆さんとの対談の箇所を読んだのがきっかけです。



小泉 滋賀県はいろんな歴史やらありますから、面白い場所ですよね。そうそう、
『伊勢物語』に出てくる神社が米原にありまして。筑摩神社というんですが、
これがまたすごくて、日本唯一の浮気防止神社なんですよ。
日高 ひぇーっ、あの彦根プリンスの近くにある神社でしょ。僕は外から見たこと
ありますけど、そんなこと全然知らなかった。浮気防止とは、一体どういうことですか。
是非聞きたい。ここからが本題です(笑)。
小泉 では、これ以降は、ちょっと私たち二人だけの話ということで(笑)。

どうですか?こんな終わり方されたら気になるでしょう。
ちなみに対談時期に神社隣のエキシブ琵琶湖は建っていませんでしたから
間違わないようにして下さいね。

それでという訳ではありませんが、機会を見つけて神社に行ったりしました。

<筑摩神社 境内の案内看板1>

<筑摩神社 境内の案内看板1>

<筑摩神社 境内の案内看板2>

<筑摩神社 境内の案内看板2>

女性が鍋を冠るということについては
若しその中に犯淫の輩在るときは、必ずその鍋落ちて発覚す」とか
その年に褄を重ねた男の数だけ鍋を冠り、神輿の渡御にお供をし、
もしその数を偽れば神罰たちまちあたった
とか、随分生々しいことが書かれていますよ。

先日、長浜城歴史博物館が出している
『湖北の王たち 神功皇后から継体天皇へ』
という本を図書館で見つけて読んでいました。

その中で、時代は少し違いますが万葉集に読まれた歌から
湖北を考えるという章があって幾つかの歌が紹介されていました。

 

笠女郎(かさのいらつめ)贈
大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)歌三種

託馬野(つくまの)に 生(お)ふる紫草衣(むらさききぬ)に染(し)め
  いまだ着ずして 色(い)に出にけり

────── 筑摩野に生え茂っていた紫草を摘み取って着物に染めましたら、
未だ着ていないのに(あなたとまだ深く契り合ってもいないのに)
人に知られてしまいました。

 

未詳(巻十 1817)

今朝行きて 明日は来(き)なむと 言いし子が
  朝妻山(あさづまやま)に 霞たなびく

────── 今朝は帰っても、明日はまた来るわよと言ったあの娘(人妻)の
名にふさわしい朝妻山に霞がたなびいているんです。

 

未詳巻(十二 3018)

高湍(こせ)にある 能登瀬(のとせ)の川の後(のち)も逢(あ)わむ
  妹(いも)にはわれは 今にあらずとも

────── 川上にある能登瀬へ帰った後にまた逢いましょう。いま逢いたい
けれど、ぼくたちはいま逢わないほうがよいのではないか…。

(p106〜 万葉時代の湖北 吉田一郎)

<天野川(息長川、能登瀬川)河口付近>

<天野川(息長川、能登瀬川)河口付近>

随分と大らかといいますか、自由といいますか、今の時代の
ちょっと息の詰まった感じからすると、羨ましさも感じる歌ですね。

昔この筑摩の地は御厨(みくりや)といって
朝廷の食糧調達に関わる所でした。

「筑摩御厨長」とネット検索すると必ず
鮒鮨などの食糧を貢納する役」という文が
セットで検索結果に現れます(笑)

それらの元ネタは『延喜式』内膳司条とのことです。
ちょっと難しそうですが、ざっくり言えば、
延喜式は古代の朝廷運営マニュアルで、そのうちの内膳司とは
天皇の食膳「供御」の調理を担当する部署のようです。

当時、この地域は中央と交流もあり、文化レベルの
高い人も沢山来たり住んだりしたでしょう。
ハイソサイエティの社交場でもあったのでしょうが、
その後に男女関係がなにか大きな社会問題になったのでしょうかね。

ちなみにこの筑摩の一帯は筑摩江といって
昭和22年までま大きな内湖があったそうです。
今では千数百年前の人々の見た風景を見ることは出来ません。

しかし、和歌ってある意味スナップ写真のようなものだなぁ〜と思うのですが、
和歌の字面を追っていると自分も同じ風景が見えるような気がしてきます。
いかがでしょうか。

<筑摩 今昔>

<筑摩 今昔>

<遠くの高い建物(エクシブ琵琶湖)の下に筑摩神社>

<遠くの高い建物(エクシブ琵琶湖)の下に筑摩神社>

<磯崎から筑摩方面>

<磯崎から筑摩方面>

またまた、話が長くなってしまいました。
もう1つの祭り、三輪神社の鰌祭りについては
こちら ==> ドジョウのナレズシ 三輪神社
筑摩神社の別記事は
こちら ==> 鮒寿司と朝廷

<外部リンク>
鍋冠祭 ==> 鍋冠祭保存会
ドジョウ祭り ==> 鰌祭り(どじょうまつり) 鰌取り神事
筑摩江について ==> 歴史地名ジャーナル

防矢を射る、古代の姫 浅井姫命(あざいひめのみこと)

2012年4月14日

<イメージ 防矢を射る姫>

<イメージ 防矢を射る姫>

今回はむか〜し、昔
千年以上昔にこの地にいたであろう姫が
「私の存在が歴史の闇の中に埋もれてしまっているので
掘り起こして光の中に出して欲しい」
と言っているような、言っていないような、
そんな妄想にかき立てられて書いてみました。

(下記動画はポッドキャストで話した内容に画像を付けたものです)

先日は久々の晴天の休日で、
子ども達と小谷山を山歩きをしてきたのですが、
山を歩きながら色々と感じる事や思う事がありました。

まずは、改めてこの山からは湖北の領域はもちろん
北国脇往還や北国街道などの街道筋が遠方まで見渡せ
山城の位置として本当に優れていたんだなぁ〜ということです。

<小谷山から岐阜県境を望む>

<小谷山から岐阜県境を望む>

そして重要な事は、ここから竹生島が見えることです。

<本丸下 桜馬場から望む>

<本丸下 桜馬場から望む>

竹生島は浅井郡という水陸両方の地域を結び付ける
地理的にも宗教的にも中心となる島ですが、
小谷山もこの地域の要となる山だな〜と思います。

この小谷山に城を構えた浅井氏ですが
その出身は山の少し西側にある
丁野(ようの)という集落だとされています。

<小谷山と丁野の位置>

<小谷山と丁野の位置>

ここの集落には岡本神社という
延喜式にも記載された古い神社があります。

<式内 岡本神社>

<式内 岡本神社>

元々はさらにその集落の西南に位置する岡山という
小高い山に鎮座していたそうです。
中古浅井氏の祈願所としてあったそうです。

主祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)と
大山咋神(おおやまくいのかみ)、
この神さんは大山に杭を打つ神、すなわち
大きな山の所有者の神を意味するそうで
近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)に
鎮座してる神さんで山王とも呼ばれています。

ちなみに、小谷城は本丸の奥に京極丸、
さらにその奥に山王丸がある構成で
浅井氏が京極氏を敬い、さらに比叡山の山王信仰
篤かったと言われていますね。

<小谷城の構え>

<小谷城の構え>

話戻して〜
岡本神社に祀られているもう1つの神さん
それは浅井比咩命(あざいひめのみこと)とありました。

なんと、竹生島の都久夫須麻神社だけでなく
ここにも浅井姫が祀られていたのですね〜。

私はちょっと驚いているのですが、
皆さんよく知った話なんでしょうか〜…

<岡本神社由緒>

<岡本神社由緒>

もしかしたら、その他にも浅井姫命を祀っている神社が
他にもあるかもしれないなぁ〜と思い、調べてみました。
昔の神さんは表記が色々あるのがややこしいですね。

浅井姫命、浅井比売命、浅井比咩命、検索してみましたが
御祭神として記載されている神社は見つけられませんでした。

けれども、1つ面白い記述を見つけました。

それは西浅井町の岩熊(やのくま)という集落にある
矢合神社に関する記述です。

<西浅井町岩熊 式内矢合神社>

<西浅井町岩熊 式内矢合神社>

矢合」の名称について。
昔、浅井姫命と気吹雄命が争った時、
気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、
防矢を射たという。

このような記述が幾つか見つかりましたが
その出典が何か?(本とか神社の掲示とか)は
今の所わかりません。

でも、この話も私は初めて知りましたので
ゾクゾクしてしまいました。

浅井姫命が象徴する氏族、豪族の本来の本拠地が
どの辺りかは不明ですが、岩熊まで退いたというこを考えると、
ここより北は深い山が続きますから、
もっと南の地方に、その本拠地があったのは
想像出来ますよね。

しかし、南は琵琶湖です。

<岩熊まで退くとは?>

<岩熊まで退くとは?>

多分、水陸両有する浅井ですから
水上を逃げて来たのでしょうね。

気吹雄命(いぶきお、きふきおのみこと)とは、
またの名を多々美比古命(たたみひこのみこと)といい
岐阜県垂井町伊吹にある伊富岐神社
滋賀県米原市伊吹にある伊夫岐神社
祀られています。

<岐阜県垂井町 伊富岐神社>

<岐阜県垂井町 伊富岐神社>

<滋賀県米原市 伊夫岐神社>

<滋賀県米原市 伊夫岐神社>

この伊吹の神さんはとても強いのです。
古事記や日本書紀ではヤマトタケルが
伊吹の神に散々な目にあったことが書かれています。

神々の系譜としてはこんな話もあります。

又云へらく、霜速比古命(しもはやひこのみこと)の男、
多々美比古命(たたみひこのみこと)、是は夷服(いぶき)の岳の神と謂ふ。
女、比佐志比女命(ひさしひめのみこと)、是は夷服の岳の神の姉(いろね)にして、久惠峯に在しき。
次は淺井比杦(あさゐひめのみこと)、是は夷服の神の姪にして、淺井の岡に在しき。
ここに、夷服の岳と、淺井の丘と、長高(たかさ)を相競ひしに、
淺井の岡、一夜に高さを增しければ、夷服の岳の神、怒りて刀劔を抜きて、
淺井比賣を殺(き)りしに、比賣の頭、江の中に墮ちて江島と成りき。
竹生島と名づくるは其の頭か。

この話は
今は現存しない近江風土記に記されていただろう内容を
室町時代初期に編纂された帝皇編年紀に再保存されたもので
古代に編纂された「風土記」の記事かどうか疑わしいとはされてます。
けれども、エピソードとしてはとても興味深い内容です。

伊吹と浅井は元々は同族から分派した一族だったのでしょうか?
ということは、いきなり伊吹の一族が外部から侵入してきたというよりは
交流があったけれども、関係が悪化して争いになった、
という感じなのでしょうかね。

伊吹山の背比べの話は、地元では昔話として
そこそこ知られています。山の背比べということで
理屈で言えば滋賀県の一番高い山の伊吹山(1,337m)と
二番手の金糞岳(1,317m)の話かなと思っていたのですが、
いつも「浅井の岡」という表現が気になっていました。

クリックするとパノラマ写真が展開します。

<小谷山〜金糞岳〜伊吹山>

<小谷山〜金糞岳〜伊吹山>

しかし今回、
岡本神社という「岡」の名の付く神社と浅井姫が関係がある事、
またそこに祀られていた神さんが、元は集落近くの「岡山」という
小山に鎮座していたという事、などを知りました。
何か「岡」という言葉に意味がありそうな気がします。

ちなみに延喜式で掲載されている「岡本神社」は
4社あるとされています。

その中に長浜市(旧浅井町)東野に岡高神社があります。
この神社の由緒を調べたら、以下のような記述がありました。

<当初、岡本神社だった岡高神社>

<当初、岡本神社だった岡高神社>

仁寿元年(851年)近江守小野篁(たかむら)が
現在地に社殿を造営し、奉斎する。
当時岡本郷(後の下草野花)の岡本神社と称した。

え〜〜〜〜! 知らなかった。

さらに、
長浜市(旧びわ町)早崎 五社神社(岡本神社)

もと朝日の岡、淺井岡と称された早崎村内の小字岡ノ柄に鎮座。
中古五柱の神を奉齋し五社明神と称した。『特選神名牒』は、
「早崎村なるは本社にして、丁野村なるは遷しの社とみゆれば
早崎村を式社と定めて可ならん」とする。
とあります。

そして、もう1社
長浜市(旧湖北町)留目 鹿島神社(岡本神社)
です。

こんなことを書いていて、ふと思いましましたが
長浜市(旧浅井町)法楽寺には岡山という小高い山がありました。
北陸自動車道の造成に土が使われて、いまは消えてしまいましたが。

何か、これらの「」は関連性があるのでしょうかね?

<昔、岡山という小高い山がありました>

<昔、岡山という小高い山がありました>

旧坂田郡内の数少ない式内神社にも
「岡」に関連した名前を持つ神社が目立ちます。

米原市(旧山東町)間田   岡神社
米原市(旧山東町)長岡   長岡神社
米原市近江町宇賀野     坂田神明宮(岡神社)
県彦根市後三条町      彦根神社(岡神社)

 

「浅井」と「岡」

直感だけでなく、もう少し深堀する必要がありそうです。
何も出てこないかもしれないけれど…。
でも、ず〜っと眺めていたら「岡」という字は
くせ者のような気がしてきました。

とりあえず、今回の話の内容を地図でまとめてみると
こんな感じになります。

<神話時代の浅井と伊吹の動き 想像>

<神話時代の浅井と伊吹の動き 想像>

浅井郡の北の端から防矢を射た浅井姫。
その後もこの地域が浅井郡と呼ばれ続けたということは
また、姉川の辺りまで南進して伊吹の勢力を押返した
ということでしょうか。

それとも伊吹の勢力が征服して
征服したけれども、元の豪族を神として祀った
という事でしょうか。

いずれにしても
かなりの躍動感で神々が動いていた感じがしませんか?

 

 

<内部リンク>
東南アジア・メコン川と滋賀県・琵琶湖の意外な関係性
浅井郡とメコン川流域との接点、、、、
podcast 60 水陸両方=鮒&米を意識した地名
妄想終結 時間を超えた湖と陸の恵み〜鮒寿司
片山トンネルを抜けると見える琵琶湖から浅井郡を思った。 どう鮒寿司と結びつける?

<外部リンク>
延喜式神社 近江国(中段から後半)
「風土記逸文」~東山道

桜島から届いたもの これで鮒寿司の鮒を乾かしてみよ〜

2012年3月31日

以前に灰干しについて書きました。

旨い!鮒寿司をつくるために、
その製造過程でポイントとなるのは何か?
これをず〜っと考えて、実践もしています。

一般的に言われているのが、塩切り(塩漬け)された鮒を
綺麗に洗うという事です。生臭いか生臭くないかは
洗い方で大きく差が出ると思います。

<魚は丁寧に洗う事>

<魚は丁寧に洗う事>

でも、流水で流し洗いすると、塩漬け状態で熟成された
折角の旨味成分も流し去ってしまうので、
ダ〜ッと洗い流せば良いというものでもないようです。

その後の鮒をご飯に漬る作業に移る際に、鮒の水分が多いようですと
鮒に付着した菌が活動しやすい状態のまま、
ご飯の中に漬けられるという事になると思われます。

そして、その菌が作用して臭い発酵になってしまうのではと
私はそう考えるわけでして、これも一般的にも
水洗いした鮒はよ〜く乾かしてから飯漬けする事が奨められています。

<これは2008年に漬けた時の陰干しの様子>

<これは2008年に漬けた時の陰干しの様子>

乾燥という作業も奥深くて日干しと陰干しについて、
それぞれのメリットが書かれている記事などを読んでいると
紫外線を当てると旨味が増したり臭みの原因の細菌が減るとか
逆に味が変質して美味しくなくなるとか、どっちがどうか
よくわからないのが実情です。

それから、乾燥時に空気に触れる事自体が
魚の脂分の酸化を促進して味が劣化すると書かれたものがあります。

ん〜〜〜〜、理屈はわかる気もするが、どうなのでしょうね。

そんな事を色々と調べていた所「灰干し」なる方法を
知る事となりました。

で、その乾燥について書いたのが
鮒寿司を作る過程で、乾燥って重要ですよね〜という記事です。

灰干しとは砂粒程度の大きさの火山灰を利用します。
灰に魚を埋めて乾燥させる方法です。
火山灰はその粒自体に小さな穴が沢山あいていて
その穴の毛細管現象で水分を吸い出すのだそうです。

加えて魚をセロファンで包んで火山灰で被いますと
セロファンの半透膜の作用で、水分やアンモニアなど臭みの元となる成分は
魚の外に排出し、砂がそれを吸収します。
セロファンの穴より大きな旨味成分は、そのまま残る仕組みだそうです。

<灰干しの実例>

これって、良さそうな乾燥方法だと思いませんか。
でも、どうやって乾燥した火山灰を手に入れるの?

ネットで検索した範囲では火山灰を利用した化粧品などの
商品は販売されているようですが、火山灰そのものの販売は見当たりません。
あるとしても土産物、記念品的なとても割高なものです。
確かにそんなに需要があるものとは思いませんが、
化粧品などの二次製品があるという事は、
そこへ原料を供給している所があるという事ですよね〜。

そこで火山灰につながっていきそうな思い当たる所へ
問い合わせをしてみました。具体的には鹿児島県庁などの
公共機関や教えてgooとかの情報サイトなどですけれど、
その内の鹿児島市役所からのラインで乾燥火山灰を
取り扱っている会社とつながる事が出来ました。

「たった6人の紹介で世界の誰とでも友達になれる」
という話がありますが、今回は3人の方の紹介リレーで
火山灰とつながる事が出来ました。

<鹿児島から届いた乾燥火山灰30kg>

<鹿児島から届いた乾燥火山灰30kg>

今年は灰干し鮒寿司を作ってみようと思っています。

 

<内部リンク>
鮒寿司(ふなずし)の作り方の実際(1)洗って干すまで

<外部リンク>
色々な乾燥方法について書かれたサイト 干物の知識 乾燥方法
日干しのメリット 紫外線で干物をおいしく。なぜウマい アジ の干物
「たった6人の紹介で世界の誰とでも友達になれる」 六次の隔たり

オオカミとフナズシ

2012年3月30日

これから書くことは集落という場所で生まれ育った者でないと
分からない事もあるかもしれませんが、よかったらおつき合い下さい。

最近読んだ本に『オオカミの護符』小倉美恵子著という本があります。
話は神奈川県川崎市宮前区土橋という場所から始まります。

ここは著者の美恵子さんが生まれた場所です。
彼女が生まれた昭和38年頃は農家が50戸程あるだけの農村でしたが、
その頃から急激な開発が始まり今では7000世帯が住む街へと
変貌してしまいました。

土橋地区と聞いてピンと来る方は少ないかもしれませんが
歩いてすぐに東急たまプラーザ駅があるというと
どんな感じの街かイメージ出来る人は多いのではないでしょうか。

<川崎市宮前区土橋>

<川崎市宮前区土橋>

彼女の生まれ育った家は茅ぶき屋根の家で、
土橋で取れる土と草と木、そして竹で出来ていて、
牛小屋があり、おじいさんはいつも畑仕事をしていました。

そんな、のどかなこの地域も高度経済成長の波に乗って
人口が増えて、新しい学校ができます。

ある日、同じクラスの男の子が
俺んちから学校うへ行く間に、ボロい家があってさ
その前を通ると臭いんだ」と言いました。
それ以来、彼女は自分の家が恥ずかしいと
思うようになりました。

彼女は本当は茅ぶき屋根の家もおじいちゃんも
大好きだったのですが、自分が嫌われないように
振る舞っていたのです。

<茅葺き屋根>

<茅葺き屋根>

そんな彼女ですが
それから、大人になって日本の各地や外国に行った時に
若い人たちが自分の地域に伝わる芸能や行事をとても大切にして
誇りを持って伝えている姿を見て自然と涙が出てきたそうです。

そして
自分の生まれた地域にも同じように芸能や行事があり
それまで強烈に恥ずかしいと思っていたものがとてつもなく大切で、
本当はきちんと自分自身が自分の言葉で伝えるべきことだった
と気づき、ひたすら記録を取り続けます。
その記録をまとめた本が『オオカミの護符』です。

彼女は自分が「お百姓」の家に生まれながら
「お百姓」の暮らしをきちんと理解していなかったと言っています。

「お百姓」とは田んぼや畑で米や野菜を作る人で
しかも、勉強ができない人や就職ができない人がなる、
誰にでも出来る仕事だと思っていたそうです。

<image 農業>

<image 農業>

しかしながら、いろいろ調べてくると
自分たちの暮らしに必要な家や道などは自分たちの手で作る
そこそこの土木や建築技術を持ち、冠婚葬祭や集会も自分たちの家で行い
」という仕組みで金銭的な助け合いもしてきた、
とてもスゴイ人たちだったと思うようになります。

その「講」の1つに、『オイヌさまのお札』をいただきに
御岳山に詣でる御岳講というのがあるのですが、その御岳講を調べて行く中で、
山岳宗教に関連した里の人々と山の人々の暮らしや関係、
また野生動物と人々の関わりなどを彼女は拾って行きます。
これが本のタイトルの『オオカミの護符』と結びつくわけです。

興味のある方は本を読んで頂きたいと思いますが、
その中で私が興味深い考え方だなぁと思った事を
1つだけ紹介したいと思います。

彼女はこの『オオカミの護符』の取材の中で「べーら山」という
忘れ去られていた地元の言葉を思い出すのですが、「べーら山」とは
多摩丘陵の村々で開かれた「雑木林」を指す地言葉だそうですね。

全国区で通用する「里山」という便利な言葉を使ううちに
記憶の隅に追いやられてしまっていたと彼女は書いていますが、
この二つの言葉には概念的に違いがあるようです。

地元土橋では、ナラやクヌギなど薪にする木を「べーら」といい
それを生やした山を「べーら山」と呼んだとの事。
ちなみに、本の後書きでは全国から「べーら山」への反応があり、
その中には滋賀県では薪炭(しんたん)を採り、山焼きをする山を
「ほとら山」と呼ぶ地域があると報告があったそうです。
検索してみたら旧朽木村で今に伝えられている記事がありました。

「べーら山」は煮炊きの為の薪をとり、
堆肥の為の落ち葉を拾い、清らかな水を恵んでくれる命の山として、
神々が住む祠が祀られ、人々の祈る姿があったそうです。

<祠>

<祠>

ところで、神々はどこにでも祀られていたわけではないそうですね。
タケノコは貴重な現金収入源だったそうですが、そんな経済的な恩恵をもたらした
「竹薮」には神々を祀る祠は無いそうですなんですね。

その違いを解くカギとして哲学者の内山節(たかし)さんが語る
稼ぎ」と「仕事」という二つの言葉が思い浮かんだのだそうです。

「稼ぎ」とは生活に必要な現金を得る為の労働であり
他にもっとよい収入があれば直ちに乗り換えてもかまわない。
それに対し「仕事」とは、世代を超えて暮らしを永続的に
つないでいくためのもの、という捉え方だそうです。

かつては村ばかりではなく、町場の商家や職人、町人の家や仕事場にも
「神々の居場所」が設けられていた。「仕事」とは、人の力のみでは
成就しないものだと考えられていたからだろう。

「稼ぎ」は人間関係の中で成立するが「仕事」は人のみではなし得ない。
こう考えると、現代の「仕事」の概念は、ずいぶんと変わってしまったことに
気づく。むしろ「仕事」だと思って行っている労働のほとんどは「稼ぎ」と
言えるかもしれない。

と、著者の美恵子さんは本の後半で書いています。

<家に占める座敷の地位はずいぶん下がったように思います>

<家に占める座敷の地位はずいぶん下がったように思います>

私自身も地方の集落で生まれ、
彼女の時代よりは若干近代化の波を被りつつも、
まだ昔ながらの風習の残る雰囲気の中で育ちました。
土橋集落の暮らしへの彼女の思いや感情といったものに
私も共感出来るように思うのです。

人々が生まれ育ち、そして死んでいく
繰り返しの中で受け継がれ、守られてきた集落の暮らしです。
受け継がれるとは、そこに構造があるということです。

「稼ぎ」と「仕事」という考え方に添って考えれば
仕事とは、言い換えれば「集落の構造」を
継承していく事でもあっただろうと私は思えます。

<行政区画は変われど変わらない集落>

<行政区画は変われど変わらない集落>

現在のまちの暮らしでは、そういった構造の枠に属さない人が
多数かもしれませんし、逆に集落の中で暮らしながら
そのような枠が煩わしいと思っている人も少なくはありません。
私自身も煩わしく思う事が多々あります。

けれども、そんな構造に支えられた集落という単位。
日本の歴史の中で継承され貫かれている一本の筋が
あるとすれば、集落こそがその筋だと思うのですね。

律令が崩れ、荘園領主、守護大名、戦国大名、藩主などと
幾度と領主が入れ変わり、市町村が合併し村や町の名前が消えても尚、
変わらずある共同体の単位が集落です。
都会の事は分かりませんが、何丁目自治会とかの単位でしょうかね。

<湯次という小さな集落に現存する式内湯次神社>

<湯次という小さな集落に現存する式内湯次神社>

視点を変えて、「オオカミの護符」を「鮒寿司」に置き換えてみると
同じように人間のみでは成し得ない自然の働きを
「鮒寿司」の世界に感じる事があります。

発酵という微生物の働きは勿論、鮒を育む琵琶湖や、
お米を育てる田んぼそのもがのが人間のみでは成し得ない
自然の働きによって恵みをもたらしてくれます。
それらは部分部分の話ではなくて、近江盆地全体の調和の上に
成り立つ自然の働きでもあります。

琵琶湖の深呼吸」と言われていますが、
周辺の山々から冷たい雪解け水が琵琶湖に注ぎ、湖の深い所まで
酸素を沢山含んだ水を送り込むことで湖の生態系が保たれているといった、
まるで近江盆地全体が大きな生き物でかるかのような自然の仕組みです。

宗教観と科学というと、相反するような部分もあるのでしょうが、
滋賀という土地柄は科学的な理解が深まれば、より宗教的な感情も
深まるような、そんな土地の奥深さがあるような気がします。

<山に積もった雪が琵琶湖を豊かにしている>

<山に積もった雪が琵琶湖を豊かにしている>

その証拠といっては何ですが、
滋賀県は寺密度が最も高い県だと言います。
また延喜式に記載された神社の数も多い県でもあります。
それらは時の権力や権威によって守られてきたというよりは
集落の人々によって守り継がれてきたものでもあると思うのですね。

何かしらの大切な仕組みが「集落」の構造にはあるような気がします。
「仕事」から離れて、「稼ぐ事」に意識を集中するあまり
来るべき未来が思い描けなくなってしまっている、それが現在であるならば、
未来を切り開くヒントがこういった視点にあるような気がするんですけどね〜。

 

<内部リンク>
浅井郡とメコン川流域との接点、、、、

<外部リンク>
google検索 寺密度
google検索 琵琶湖の深呼吸
「仕事」と「稼ぎ」の話から google検索 三方良しとは